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名古屋大学大学院

カンボジアの歴史的背景

カンボジアは1887年以降フランス領インドシナ連邦の構成国としてフランスの植民地となっていたが、1953年にノロドム・シハヌーク王が国際世論にカンボジア独立を訴え、フランスから主権を回復し独立を達成した。1955年シハヌーク王は統一的な人民社会主義共同体(通称「サンクム」)を組織し、内政に関して革新的な政策を採用していた。

 

クメール共和国(1970-1975;ロン・ノル時代)ではノロドム・シハヌーク国王が独立を果たしたものの、国家の担い手をめぐる紛争は続き、1970-90年末まで続いたとされている。ロン・ノル首相はクーデターより、シハヌーク国王を追放し、クメール共和国を設立した。ベトナム戦争の影響もあった。都会と農村の経済格差問題の深刻化、汚職の蔓延といった問題があったため、クーデターにつながった。

カンボジア共産党と民族統一戦線を結成→のちのクメールルージュ→ロン・ノル政権を倒すため」といった流れを経ている。

その際アメリカは共産党主義者を滅ぼす目的で空爆などをおこなった。

民主カンプチア(1975-79年;ポルポト時代)クメールルージュによる残酷や政策が、カンボジアにおけるソーシャル・キャピタルに計り知れないほどの影響をもたらした。クメールルージュはカンボジアの社会のうち、文化、宗教、組織、ネットワーク・規範そして家族までも否定し破壊したとされている。

ポルポトは西洋諸国の影響を受けないために極端な共産主義体制をとったと言われる。

また、共産党は公教育、仏教、貨幣、市場、私有財産などのさまざまな制度は家庭生活、個人主義を革命の障害となるため禁止した。

さらに、子ども、夫婦をバラバラにし、またカンボジアを農業中心の国家にしようとした。

その後のカンプチア人民共和国(1979-89年:ヘン・サムリン時代)では、カンボジア共産党の生き残りから結成されたヘン・サムリンを中心とする救国民族統一戦線は、クメールルージュと戦闘した。ヘン・サムリン政権の社会主義政権が誕生した。ポルポト派はカンボジアの山岳地帯に逃れることになった。89年、ベトナム軍の撤退後、カンプチア人民共和国が自立して国家運営ができるようになった。

1991 年10月23日にパリで調印された「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定(パリ和平協定)に基づき、国連カンボジア暫定統治機構UNTAC が設立された。

このUNTACの任務は停戦監視、武力の解除、治安維持、自由で公正な総選挙の実施、難民・避難民の帰還促進、インフラの修復であり紛争の被害を受け、破壊されたものを直し改善していく必要性がある。